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興味は色々。数学とか神学とか。日記からはじめました。

聖書翻訳への道

現在創世記を鋭意翻訳中である。


聖書翻訳ほど大事なことはない。これに比べれば神学論争も教会の派閥争いも大したことではない。
いや、少し言いすぎた。正確には、神学論争や教会の派閥争いは聖書箇所の解釈違いという形で表出し、翻訳の差異という形で結実する。


一体人はいつになったら聖書の翻訳をはじめても良いことになるのだろう。
聖書翻訳の免許皆伝はいつ得られるのだろうか。
ヘブライ語ギリシャ語の文法を一通りマスターしたら?
自分なりの聖書解釈をそれぞれの箇所で確立させたら?
講解説教を全ての箇所について終わらせたら?
ありとあらゆる註解書を読んだら?
はたまた自分で註解書を書いたら?
文法書を執筆したら?
辞書の編纂に関われるようになったら?


そんな日はやってこないだろう。
その代わり気づく。
まさにそのあらゆる作業のはじめに必要なのが原文の翻訳作業なのだということを。




デボーションも言うに及ばず。
「日々聖書を読んでいます」というセリフの如何に浅薄なることか。
聖書翻訳こそ最強のスローリーディングであり、
デボーション、すなわち神にこの身と時間を献げることなのだ。


まさに聖書を読むために翻訳をするのであり、
これこそが自分の精神の中に聖書を血肉として宿らせることである。
自分の言葉に翻訳できなければ真の理解とは言えない。
それはキリスト教がいつまでたっても日本語文化圏に落ち着かないことの原因でもある。


説教でしばしば出会うことは、英語の説教の焼き直しである。
彼らは英語のキリスト教に出会った。Love, integrity, praise, holiness, etc..
彼らは英語で物を考えている。もちろん英語で書かれた解説しかないものもある。それは仕方ない。
しかしそこから受け取ったものがきちんと母語に落とし込まれなければ意味がない。
外国であった出来事を聞いて神を信じるか?
英語の聖書に福音が述べられているのか?


原文から理解する以外に情報への肉迫などあり得ない。
翻訳だけを読んで研究する人などいない。


聖書を読みたい!
ただ聖書が読みたいだけなんだ。
もはや神がいるかどうかも気にしない。
誰がこれを書いたのかも究極的には些末なことだ。
キリストの神性も聖霊の出どころも、
ただこれを読んだ後に議論すべきことであって、読む前に決めることには意味がない。
解釈の歴史や教会の事情は、読んだ後に聞こう!
人類の今あるところはその後に考えよう!
ただ純粋に読んで読んで読んで、
その内容を手元に書き残すために訳文を作る。
誰かに読んでもらうための物ではあるけど、
誰かに納得してもらうためのものではない。
そこかしこに広まってほしい物ではあるけど、
教会でありがたがられるためのものではない。
だから、解釈の決定できないところは複数の訳文を載せるし、
意味が不明瞭なところは訳文をもはや載せない。
文法的な間違いはそのまま訳すし、
神学と相容れないところもそのまま訳す。
判明した地名は現代通用しているものにするし、
重訳の過程で変化してしまった名前はもとに戻す。


だってだってそうしないと、
神に失礼じゃないか!
そう思わないのか!
「こう訳してしまうと神の性質に反する」なんて、
いつからお前は神より偉くなったのか!
聖書に従属しろ!
聖書に従属しろ!
校訂を編集したものたちにではなく、
ましてそれを訳してきた人々にでもない。
敬意を払おう!
明らかな間違いと思った箇所を直さずにただ受け継いだラビたちに。
敬意を払おう!
普及したものよりもより原文に近いと思われる写本を選んだ学者たちに。
ただただ地道な努力によって本文の意味に近づいていくときに、
ようやく神の姿がおぼろげながら見えてくる。


神に配慮しながら聖書を訳すことはできない。
なぜならそれは自分が想定している神に過ぎないからだ。
もちろん自分の読みたいように聖書を読むことはできる。
もっとも、それにも訳文を作るときにいやというほど気づかされる。


いつか聖書翻訳が完成したら、こう言おう。
僕が生まれたところから見えた神の話は、大体こんな感じだった。
君が生まれたところから見えた神の姿と、どのくらい違うだろう。
手触りが、匂いが、
色と気配と眼差しが。
答え合わせをしよう。
手を取り合ってお茶にするのは、それが終わってからだ。


近頃じゃ着物姿も滅多にお目にかからなくなった。
エスは一体その席に、
何を着て座るだろうか?