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興味は色々。数学とか神学とか。日記からはじめました。

社会人になって一年経ったが、会社というのはつまらない。

毎日毎日出社してプログラムを書く仕事に慣れてしまったのだろう、月曜日から金曜日まで朝から夕まで自分が使うわけでもないアプリケーションを作ることでお金をもらっている。これはこれで刺激的にはなるのだろうけど、今の自分にそれが魅力的に映るわけではない。私が興味があるのはBuilderをSupplierで実装することだし、遅延評価する関数を実装することだし、家に帰ってDie Unendliche Geschichteを読むことだし、Basic Number Theoryを読むことだし、間違っても厳密な定義を与えられっこない仕様を渡されて妥協策を考えることや、自分の分かるレベルの説明じゃないと不機嫌になる同僚の顔色を窺う事ではない。それでお金をもらえるならいいじゃないかと言われれば反論はできないが、それこそ反論する意味がないような批判で、我慢と自由が釣り合わないといけないという道理はない。

ああ、大学に行きたい。親の金で通っていた大学だが、あそこに私が心躍らせるものは大体あった。社会に出なければわからないこともあるだろうとは思っていたが、そんなものは一年もすれば飽きてしまった。みんな本当は大学に居たいのだが、お金がそれを許さないのだ。1日に今まで知り得なかったことを百も二百も頭に詰め込んで、歴史を紐解いて言葉を味わって、夜も昼も問わず書物と対話することが許されていたあの大学にまた行きたい。遊んで暮らせるだけの金があったら、間違いなく大学に行く。あの退官した教授がまだ大学いるうちに行けたら嬉しい。別の大学に移ってしまったポスドクに会いたい。授業に出たい。宿題をしたい。添削してもらいたい。意見を言いたい。意見を直されたい。自分より正しい意見に打ちのめされたい。

人はどうして働くのだろう。働かなくては飯が食えませんぞと言われても、正直ピンと来ない。結婚して子供を育てて、ということをしたければ稼がなければならない。一人生き延びるだけならどうにかなるかもしれないが、本が買えない。ビジネスが趣味の人々はいいなと思う。ホリエモンに対する憧れはそこで途絶える。私はビジネスが好きじゃない。結局のところそう。趣味にするには魅力が足りない。私の熱中の仕方が足りないのかもしれないが。

趣味、趣味。ピアノを弾いて、数学をして、小説を読んで、書いて、筋トレして、泳いで、英語とドイツ語とギリシャ語とラテン語ヘブライ語と。世界は広すぎる。本当に広すぎる。小さい頃夢見た数学者の世界なんて、専門の専門家たるや、その深淵を覗きこむ事すら出来ない。昔読んだ読み物に出てきた数式なんて、理解できるようになったものの方が少ない。類体論、p進数、その何を分かったという?マイヤービートリス、フーリエ変換ガロア群、その何を知ったという?数学ですらこれだ。他のものなんてそれ以下の時間しかかけていないのだから、たかが知れる。何も知らない。何も知らない。ただそれだけが言えるようになった。本心からそれが言えるようになった。それを進歩と呼ぶなら、そうだ確かに大学は人を進歩させるところだ。

会社に入って思う。人は面倒臭い。電話が面倒臭い。挨拶が面倒臭い。アポイントが面倒臭い。会議が面倒臭い。しきたりも伝統も慣習も面倒臭い。フィールドワークだと思わなければやってられない。こういう時はこうすることになっている。こういう時はこういう表情をすることになっている。経験則に推論を重ねてようやく生きていける。その上つまらないときた。生きて行くのは難しい。それでも生きる理由を自分で打ち立てたから、どうにか生きていける。

生きる意味なんてないんだろう。だから自分で作るしかないのだと思った。家族のために生きるのは悪い目標じゃない。一応一年間は会社に行き続けられた。奇跡的だけど。健康も害さなかった。神の慈悲だろう。たまに襲ってくる陰鬱を回避するために有給は結構使ってしまった。それでもいい。別に休日を溜め込んだら自由になれるわけじゃない。ただ今を生き延びることの方がはるかに重要だ。

家族ができるのはいいことだ。生きる理由になる。だが理由が一つしかないのはリスキーだ。離別死別で私は自殺者になりかねない。廃人になりかねない。緩やかな共同体意識が必要だ。これがアドラーか。なかなかいい目標だ。性善説は嫌いじゃない。性悪説は嫌いだ。だけど多分どっちも正しくない。割り切れない世の中で生きなければならない。

小さい頃に感じた、死への恐怖はある。自分の思考が未来永劫途絶えてしまうことへの恐怖。原始的で根源的で、回避不能な。だからまだ生きる。生きようと思う。

世の中を生き延びるコツはきっとこの理論ずくのところには落ちてない。自分を拾ってくれた人は明らかに自分が昔した無償の行動を評価してくれたようだ。どうやら私の善性を仮定してくれたようだ。ありがたいことだ。これは努力してどうにかなるもんじゃない。私は案外ラッキーな人生を送っているのだろうか。そうなのだろうか。

その場その場で人々と平和に過ごそうとしてきた。争いは嫌いだ。というより怒っている人が苦手だ。目の前に怒鳴っている人がいるとそれだけで涙が止まらなくなる。私はきっと他人に善性を仮定して生きてきたんだ。そうしなければ生きてこれなかった。それ以外の生きかたを知らなかった。初めての一人暮らしで新聞勧誘を追い返すのにものすごく精神を消耗したのを覚えている。全く意味が分からなかった。どうしてこんなことをしなければならないか分からなかった。

会社は善意でも悪意でもない。契約関係だ。ドライだ。多分。でもそこには人間が住んでいるから、結局贔屓がある。感情がある。だったら契約なんてなければいいのに。契約にするなら全部ドライにしてほしい。どっちかにしてほしい。でもどっちかの世界はないらしい。親しき仲にも礼儀ありという言葉が昔からよく分からない。親しくないから礼儀を持っているのだ。善意に善意を返すのは礼儀ではない。ただの自然な応答だ。礼儀は善意を誘導することが多い。ただ、個人的にはあまり役立っていない。

はっきり言ってつまらない。そう思いながらも今日を生きるしかない。過去が存在しないというスローガンは優秀だ。明日注文した注解書が届く。大きい買い物をして預金が底をついていたからしばらく書籍購入を我慢していた。給料日を過ぎて、安心して本が買えるようになった。少し高かったが、それだけの価値のある本だと確認している。読むのが待ち遠しい。それが届くまでは、手元の本を読もう。こうして今日も明日も過ぎて行くのだろうか。いや、きっと予想もしないことがまた明日起こるのだろう。人生、人生。